クラシック
--懐かしの中野・クラシックにあらず、北ア・クラシックのことども--
■8/18付朝日に「北鎌尾根」の写真と共に、ご存知「風雪のビヴァーク」の松濤明と芳田美枝子さんのルポルタージュが載っていました。内容は、好著「二人のアキラ、美枝子の山」(平塚晶人著・文藝春秋社刊、もう一人のアキラは奥山章氏)の二番煎じの感、免れませんが、紛れもなくこの尾根が、クラッシクルート中の最難関でしょう。しかし現在はアルパインルートであることに加え、アプローチが厄介となり、一般的ではありません。
天国と地獄の5月槍ヶ岳山行(横尾本谷右俣滑降)で、次田ガイドが美枝子さんを見知っているのに興味を引かれたのですが、なるほど、この本に次田氏(当年とって70才!)について、美枝子さんの言葉で「北穂小屋の次田経雄という青年」に「どうですか一本と誘われ、滝谷で章氏と共にザイルを結んだ」とのくだりがありました。
■夏山合宿参加者各位は、上高地自然公園財団チーフ・若林氏のお話し「南岳からの緊急下山ルートとしての横尾本谷右俣」をご記憶だと思います。明治25年(1892年)、ウェストン氏の槍ヶ岳行は、横尾で案内人の「右の谷は長いが、様子はよくわかっている。左の方が距離は短くてもずっとおもしろい」との言により、勇躍「横尾本谷右俣」を遡り、横尾尾根を乗越し(天狗ヶ原に関わる記述無し)、山頂を目指します。槍の肩まで登るも全くの霧中で時間も既に遅く、追いかけてきた案内人に「赤沢の岩小屋」まで引き戻され、ここで雨露を凌ぎ、翌日、横尾を経由し徳本峠を越え、橋場への帰途に着きます。当然のことながら、当時の「山登り」は渡渉を繰り返す「沢登り」であることが分かります。それにしても英国人の脚力には恐れ入ります。(ウェストン著「日本アルプスの登山と探検」(岩波文庫))
■明治35年の小島烏水「槍ヶ岳探検記」では、篠ノ井−松本間の鉄道開通直後、東京から島々にようやく辿り着くも、案内人が出払って不在、やむなく白骨温泉まで行き逗留、ここで現地案内人を雇った為、霞沢を遡ることになり、霞沢岳を極め徳沢に下ります。その後、槍沢ルートで山頂に達するも「上下左右ただ濛々として白霧のみ」で落胆、往路休憩した「赤沢の岩小屋」まで戻り一夜を過ごし、翌日再登頂、そのまま強引に飛騨側に下り、這々の体で夜になって蒲田温泉に辿り着きます。後年、10年も前にイギリス人が登っていたことを知り、驚きます。この「探検記」は文語体の詳細な鉄道旅行の艱難辛苦、温泉滞在記等、黎明期の槍ヶ岳登山記としてのみならず、当時の風俗、エスタブリッシュメント小島氏の土地の人を観る視点等を知る上でも頗る面白いのです。(小島烏水著「日本アルプス」(岩波文庫))
■上記2編に於ける「赤沢の岩小屋」の記述が、中々興味深いのですが、今回の合宿では、道端に標記あるも残念ながら見付けられませんでした。9年前、ここを通った時には確かにそれらしき形跡が認められたのですが、当然ながら既に使える状態ではありませんでした。現在は、風呂にも入れる「槍沢ロッジ」がその役割を果たしているわけです。
(以前、MLに添付ファイルで送信したものを改題し、一部書き直しました。17期 山本良樹)