夏山合宿

          山岳班

 七月二十三日(日)午前七時第一穂高号にて全員元気で先輩、父兄の見送る中を、一路北アルプスへ向った。空は相変わらず晴れ渡って、今日も暑くなりそうな日であった。車内は、ハイカー、アルピニストで満員。また、荷物といえばザックとピッケル以外は何一つ見当たらない。途中塩尻あたりで昼食をとり、二十分程遅れて松本へ着いた。予定していたバスには乗れなかったが幸いに臨時バスで一時間遅れて松本を十三時に出発した。島々で別のバスに乗り換え上高地へと向った。この道は数日前まで台風のためか不通となっていた道である。ヒヤリとさせられるような所も数々あった。トンネルは窓から十cm位しか離れていない所も通った。島々から三時間余りで待望の上高地へ着いた。眼前に、焼・明神の山々がせまっていた。バスを降りるとすぐ高原の気候が感じられた。寒いと言う者さえでて来た。もう日は大部傾いていた。急いで小梨平のキャンプ場に向かい、テントの設営をした。全員で夕食を作り、今日の出来事を話し合いながら、夕食を食べて十時過ぎにシュラフにもぐり込んだ。

 七月二十四日(月)全員六時に起床、外は小雨が降りガスっていて、完全な山の天候である。朝食はフライの下で食べ、テントを撤収して八時半、今日の幕営地横尾へと出発した。道は平らで幅も、二、三mは楽にあり、行きかう人もまだ都会的な感じがした。九時半明神池、ここで休息をとり出発。一時間程歩くと徳沢園に出た。雨はもうすっかり止み、一安心して休憩をとり、今日の目的地横尾へと向かった。この辺にくると道も狭くなり、完全な登りである。一人平均十四貫はあると思われる荷もこの辺に来るとかなりこたえてきた。おまけに夕立のように雨が降り出した。途中で昼食と思ったが、雨では、ぬれるばかりなので、少々の休息を入れて一時間半精一杯とばして、十二時四十分横尾へ着いた。もう雨は止んでいた。さっそく飯を食べて、河原のテント設営場所へ向った。ここは大部分が石なので、ペグは一つもうてず、全部石でテントを止めた。三時半に設営も終わり、五時過ぎまで自由時間として、皆は今ぬれた物等をかわかしたり、手紙を書いたりして時間をつぶした。五時半から夕食の準備をし、七時半に食事を終えた。明日の天候を気にしながら寝についた。

 二十五日(火)今日は期待を裏切って雨であった。小屋へ行って聞いたが一日中雨らしい。予定した槍アタックはあきらめて、蝶ヶ岳を目指して、天候によっては、大滝へと思い、出発した。途中は奥多摩に似ており、木々の中を雨にぬれながら三時間近く登った。今迄うっそうと茂っていた木々がなくなり、急に明るくなった。頂上間近であった。あたりは這松帯である。天候は依然として風雨が強い。気温は急激に下がっていった。皆震えがとまらなくなり、思うように喋れない位だった。その雨中で昼食を食べ、写真を撮り僅か二十五分で予定していた蝶大滝の縦走を諦めて下山である。なにしろ視界が三m足らずであったから無理ないことだろう。三時間程で横尾に着いた。一休みして、昨夜の風で大分たるんでしまったテントを直した。予定よりは幾分早かったので、テント内の整理等をし五時頃夕食の準備にとりかかり、九時過ぎに寝た。

 二十六日(水)今日は昨日よりいくらか天気が良かった。槍の登頂を祈りつつ、不安に満ちながら五時半出発した。一の俣・二の俣と行くうちは、晴れ間もあったが、槍沢小屋に着く頃には雲が多くなって、そこから槍ヶ岳方面を見上げると一面のガスであった。しかしいくらか流れているので、望みを捨てず、急な登りを雪渓に添って行った。いよいよガスがひどくなった。もう槍の肩が見えても良さそうな所へ来ているはずだが、ガスで全く見えない。あてもなくしばらく登ったが、いよいよ諦める時が来たようだ。頂上迄三時間もあれば着く所であった。まだ午前九時である。岩陰で震えながら昼食をとり、二十分後槍を諦めて引き返した。何とも言えぬ気持であった。無言のまま横尾へ下った。ここはからりと晴れ渡っていた。昨日迄屏風岩にかかっていた霧も晴れて、明日はそれこそ穂高の足下、涸沢入りである。この晩、沢で火を燃やせないのを予期してキャンプファイヤーをした。

 二十七日、五時に起きてテントを撤収。重いリュックを背負って八時、涸沢へと向った。途中数回休息をして十一時半、涸沢へ入った。このルートがこの合宿で一番予定したとおり全くきっちりいった。天候は昨日とは打って変わって、顔前には涸沢のカールが広がり、頭上には奥穂、前穂、北穂が頂を並べていた。午後から辻OBに大雪渓で男子全員が、リヤードを教えていただいた。時間は少なかったが大部分覚えた様子であった。その日の夕焼は素晴らしかった。また、日も北アへ来てから初めて顔を出してくれた。カールへ前穂の影が映り、夜の穂高が見え、これまた大変美しかった。

 二十八日、今日こそ完全な登頂のチャンスの日である。天候は最適。朝焼けは時間に応じて赤から黄色、そして岩膚の色々に至る迄、次々と変わっていくのが素敵だった。七時に、今日第一の頂、北穂へ向った。全員張り切って、ペースは全く衰えず九時半には頂上に着いた。眺めは何とも言えない程である。遠く、富士、八ヶ岳、中央、南アルプスが、はっきり見えた。雲一つなく、完全に晴れ渡って、そこから縦走して、涸沢岳、穂高小屋へと向った。その間はもし足を滑らせたら、手を離したら、命の無くなるような所であった。緊張の連続である。全員無事に穂高小屋に着いた。三木先生のマネーで御茶を飲んで、最後の頂奥穂、十二時に出発した。この登りは石ころの階段である。一時間程行くと、ジャンダルムが目の前に、無気味にに見えた。そしてすぐ頂上である。そここからは上高地のバスの姿も見え、焼岳は上からのぞくように見え、前穂の主峰が隣に、その向こう側に二峰と六峰まで続いて見えた。こここそ最後の楽園であろう。ここでの話題は、松本へ着いたら、東京へ着いたらどうしようということばかりだった。たぷり休んで後奥穂小屋へ引き返した。ここはマンモス便所で有名である。用もないのにブラブラと廻って見に来た者もいた。そこで少々休み、カール中央をテント場へと下って行った。その間に鼻血を出した者もいたが気圧変化のためとも考えられる。しかし元気に穂高を廻って来た皆の顔は、なんとなく楽しかった。その夕方は雪を食べたり、ピン食のラーメンまで食べてしまった。

 二十九日(土)今日も天気は絶好で、なんだか涸沢を去るのが惜しいくらい。皆周囲の穂高の山々を仰ぎながら、涸沢を去った。十二時に上高地に着き、すぐバスで島々へ向った。そこから電車で松本へ着いた。ここで先生と別れ、われわれは普通列車で新宿へ向った。二日午前四時半、全員無事に暑い東京へ戻って来た。

 

夏山合宿を振返って

            山岳班

 今度の合宿は我々山岳班にとっては初めての縦走合宿だった。ベースキャンプを張っての合宿とはまるきり異なるので不安はかなりあった。しかし我々は週三回の強化トレーニング準備会を行い、コースをよく検討し合いそして万全を期すように努めた。

 (これからは男子の合宿内容)

 男子は烏帽子―槍の縦走

 講堂の二階の班室でパッキングをし一旦全員家へ帰って再び集まったのが○時、全員九貫のキスリングを背負って新宿駅○番線ホームへ向った。メンバーはOB一人先生一人二年五人一年二人であった。汽車には全員座れた。先輩や女子班員に見送られながら十一時五分に出発した。目的地の濁沢出合までバスではいった。ここから三時間程歩いて今日の幕営地である濁小屋のテント場に出た。今日の天気は曇がちだった。明日は日本三大登といわれる烏帽子岳の登りだ。今日は早く寝よう。七時に寝る。

 七月二四日 太陽はからっと晴れあがりこれからの長い合宿を祝福してくれるようかのようだった。「今日はバテルのを覚悟しろよ」と先輩に言われてはいたものの、この登りには全く全員がバテテしまった。その中で和田大老だけは疲れをみせない。軍隊のきたえだろうか。昼頃には全員ダウン十五分歩いては十分休むという具合。全くおはずかしい。六時間のところを十時間かかって烏帽子岳のテント場へついた。雪どけの水を使って、その日の晩メシはカレーライスだった。メシの後にオレは一番高いところに上って、キジを打っていたら流れ星が走ったので、願いごとをしてみた。

 七月二五日 今日も全くの登山日和、全員調子よく歩いた。昨日の不調はどこへやら。六十分に十分休憩のペースだった。思ったよりもはかどり、目的地を越え水晶岳の下にテントを張った。我々以外には誰もいない気持ちの良いテントの夜だった。

七月二六日 またもや快晴。我々の心ははずむ。水晶岳を越え野口五郎岳を後にして快調にステップを進めた。その頃だったろうか。我々は雷鳥にお目にかかることができた。もちろん皆初顔合わせである。ヒヨコがピヨピヨそこらを歩いている。つかまえて手にとってみたら親鳥が突進してきたので放してやった。三俣蓮華の頂上でアイスシャーベットを食った。

この味は格別でしたよ。この日は双六まで足をのばし、三俣蓮華からの百八〇度展望は忘れられない。双六岳で先輩のヨーデルにうっとりしたものだった。

 七月二七日 今日あたり雨が来るだろうと思っていたがまたも快晴。今日の行程の中には槍の登がある。「皆覚悟しろ」とはいったものの、いざその場になってみると一年は泣き出し、二年は話す気力もない。陽気な先輩、バテながらも声をかけている。槍ヶ岳山荘には一時頃ついた。小屋で台風十三号の接近を聞いて、道のりを前日かせいでおいてよかったと思った。案の定、我々は槍ヶ岳の下にテントを張ったのだが、その晩は全員徹夜でテントの支柱をおさえながら嵐と戦った。

 七月二八日 ほとんど全員寝てないのだが皆元気に出発した。今日は女子班員に会える日だ。なんとなく気が躍る。朝のうちは台風のために見えなかった太陽も、だいぶたった頃にはちらほらみえるようになった。槍の頂上から二ピッチで横尾についた。そこには女子班員、OB、先生など多勢十三人が待っていてくれた。全部で二三人の大家族になってしまった。今夜の晩飯は女子に作ってもらった。一段落してホットしたためか、快適にねむることができた。明日からは後半穂高のアタックだ。

 七月二九日 先発隊六名、一年一名、二年四名、OB一名で出発する。二時間かかるところを一時間半という急ピッチでのぼった。一年がまた泣いた。テント場を確保するためにこれもやむを得ない。かいあってとても良いテント場をみつけ、後発隊を待つあいだ我々は昼食をとってのんびりとした。後発隊が三時間ほどおくれてバテながらやってきた。その晩はテントに十九人(先生とOBが一名ずつ昨日帰ったため)が集まり楽しい時をすごした。

 七月三十日 今日は穂高縦走の日だ。先輩と相談して二パーティーにわけることにする。先発隊は六時、後発隊は六時三十分に出発した。涸沢から見上げる穂高一連の峰々は紺碧の空にくっきりと浮び、その美しさは格別の味がある。途中私のいた後発隊はものすごい落石にあい、山の恐ろしさを感じさせられた。もう一分遅れていたら誰か、けが人が出たに違いない。北穂の頂上で先発隊とあった。全員元気に縦走をおわり、皆揃ってテントへ戻った。合宿最後の夜なので、なんとなくさみしい晩だった。

 七月三一日 最後の日だ。天気は上々快晴である。淋しい気持ちもあったが町へ帰れるという気持ちもあって本当は嬉しかった。何しろ我々男子にとっては十一日目である。帰りには十九人の長い長いパーティーであった。上高地へ戻って、そこでバスを待つ間、大正池を見たり、今噴火を始めた焼岳をカメラに収めたりした。上高地へ行っても合宿である以上個人の金は絶対つかってはいけない。うまいものが店先に並んでいるのを横目にみながら通り過ぎるのは辛かった。車掌に全員同じバスに乗れるようにはからってもらい、六時頃松本の駅へついた。市を一回りして食った都会の食事の味もまた格別だった。翌日八月一日の朝、無事東京に帰って来た。

 

                   山岳班

 ここ三年間北アルプス穂高岳を中心として夏山合宿を行って来た私達山岳班は、今年度の夏山は剣岳で、という目標を持って活動を始めたのだったが、いよいよ本格的な準備に入ると、案の定てんてこ舞いの連続だった。期末考査終了と同時に奥多摩大岳で行ったボッカ・トレーニングの惨めな失敗、主力となる二年班員が少数であること等、例年にも増して計画の前途は多難であったのだが・・・。

 七月二十三日 相当な混雑を予想した急行「黒部号」は半日近く行列した甲斐もあって、全員座って富山迄こられた。千寿原迄電車、美女平へはケーブル。更にバスに乗ったら荷物代として二百六十円も余計に払わされたのには泣けた。男子十人、女子八人、先生三人のパーティーである。雷鳥沢迄はゆるやかな登りだが十貫を越す荷はさすがにつらい。目指す幕営地で五日前先行していた四人のOBの叫び声を聞いた時はほっとした。総勢二十五人の大家族になった。

 二十四日 朝五時、炊き損ないの御飯を無理に食べ、雄山、別山を目指して出発。今日は空身なのだが、荷がないからといっても足取りはさして軽くない。しかし行手の峰のはろけさを仰ぎ、豊かに裾を広げる弥陀ガ原を振り返る事が出来るのは合宿二日目の余裕であろう。尾根上で見た遠く穂高へ続く山脈、くっきりスカイラインを描く後立山の連峰は、二年生には回想を、一年生には未来への夢を、つきる事なく育んでくれた。今日は再び雷鳥沢で幕営だ。

 二十五日 キャンプをたたみ、剣沢へ移動する。再び特大のザックを背負っての急登は話に聞く通り新兵泣かせの道だ。しかし今日の行動はたった三時間。残る半日以上を、剣岳の雄姿ににらまれながら陽なたぼっこに、コーラスに過ごす。

 二十六日 剣岳本峰目指し二隊に分け前後して出発。別山尾根は唯一の一般登路なので登山者の数は多い。険しい岩尾根の眼下は剣沢、平壁には、クライマー達がハンマーをふるい、ザイルをたぐっている。そして岩にはうす紫の花が。初めてお目にかかるそれらのものにキョロキョロしているうちに剣山頂に出て了った。見上げれば吸い取られてしまいそうな碧空。そんな山頂での喜びと感動を、いかなる言葉で綴ったとしてもそれは表現し得まい。皆お互いの顔を見つめ合ったままだ。ぽかぽかとした陽だまりに腰を下ろしてはるか白馬の連山を眺めながら昼食。この山巓に幸ありて更に何をか願わん、とはいえ矢張り食べないことには・・・。

 二十七日 二日間剣岳に圧倒され続けた剣沢幕営地を引き払い池の平へ前進。大雪渓を滑ったり転んだり、更に二俣からは例の如くあえぎあえぎ「ヨーロッパ・アルプスの趣を持つ」という池の平に着く。

 二十八日 今日は休養を兼ねた停滞。というので久しぶりに太陽が出てから起床。雪や岩に監視されている様だった今迄のてんと場とは趣を変え、ここ池の平ののどけさはまさに安息の場にふさわしい。一日中ゴロゴロしているのも惜しいので小窓雪渓へ出て雪上訓練を行った。夜は今合宿初めてのキャンプファイヤー。無我夢中で動き回って過ごした今日迄を静かに振り返りあすからの活動へファイトを燃やす一時だ。八峰の頭からのぞく月に照らされ赤く燃える炎を見つめているだけなのに、涙がこみ上げて来る夜であった。

 二十九日 阿層原へ下山。公式合宿はこれでおわり。公式合宿とは変な呼び方だが学校ではこれ以上の期間を認めてくれなかったので、以後の行動は個人山行という事になったのだ。欅平の駅で帰京十二人と別れを惜しむ。これから白馬へ向う縦走隊は女子一人を含む総勢十三人。深い山の小駅で夕闇迫る頃、一方は懐かしい我が家へ。他方は未だ知らぬ峰へ・・・。縦走隊の者にとってこれ程つらい別れを経験することは生涯あり得まい。今日の幕営地祖母谷温泉へ、ただ黙々と歩いて行った。

三十日 昨夕の悲しみも朝の陽が吹き消してくれた。しかし一年生がバテた為予定地清水岳迄は歩けず、不帰岳幕営を余儀なくされた。

三十一日 昨日の遅れを取り戻すべく、五時半出発。しかし昨日清水岳へ行かない事が幸いであった事を後で知った。そこには一滴の水もなかったのだ。地平線が白みバラ色の朝日が遥か過ぎて来た剣岳に映える頃、私達は乱れ咲く花々の中にいた。白馬岳附近が高山植物の宝庫である事は話に聞いていたが、この朝の大気の中に赤、黄、緑、紫が一面に敷きつめられたさまは壮観でさえある。疲れも空腹も忘れ、一気に白馬岳へ。そして天狗岳幕営地は今合宿初めて遭遇する雨を含んだ強風濃霧。その中を一気に飛ばした。

 八月一日 最終日になって天候は怪しくなった。強風と濃霧の中を行くべきか、止まるべきか考えた末、十時半出発を決心する。しかし天気は午後になるとすっかり落ち付き、さり気なく太陽が現れた時は皆あっけにとられてしまった。唐松岳幕営を覚悟で出発したのだが、この分なら、とばかりに長い長い八方尾根をたった四時間で細野迄駆け下りた。これで合宿の行動はすべて終ったのだが十日間も山の生活に慣れ過ぎたのか、これから東京へ帰るという感動は余りわかず、もっぱら食べてばかりいた。

 主体となるべき二年生が少ないとか、男女一緒で大人数過ぎるとか、あれこれ文句を言いながらも、夏山合宿は私達山岳班に一つの大きなものを残して終了したのだった。数え上げればつきることのない合宿の思い出は、私達誰もの心に忘れ得ぬ感激を残してくれたであろう。そんな喜びも一つの成果であった。しかしもっともっと大きな事は、私達皆の心に同じ気持ちを起こさせてくれたこと。それは「仲間なんだ」という素朴な気持ちとでも言うのだろうか、意識していては求めることの出来ない、表し難い「何か」であった。そんな「何か」が私達山岳班に自然につちかわれたあの十日間の合宿であった。例年に比べて何かと欠けた点もあったろう。山というものを私達はもっと厳しく見つめなければいけないのかもしれない。けれどそれは、私達皆の心が一つになってこそ得られるのだ。大勢の一年生と数少ない二年生、なんとなくしっくりしなかったのも、合宿以後確かに変わってきた。そしてあの文化祭、久しく遠ざかっていた山への情熱をこめた八ヶ岳合宿も終り、いままた、スキー合宿を目指して私達はたゆまなく努力している。そしてこれからも果てることのない「私達の仲間」の活動が続いていくのだ。               班長 八尾愛子

 

                   山岳班

 山岳班というわれわれの班活動の中で案外目につかず、この欄を見てわれわれの活動を知る人もあるのではないでしょうか。校内での活動といえば、トレーニング、装備の手入れ位のもので、本番は必ず郊外でわれわれだけが楽しんでいるのです。それを皆さんが見てくれる訳でもないのですから無理もない事でしょう。われわれとしては何かにつけて皆さんに、われわれの活動を認めて戴くため努力をしていますが、活動の性質上難しいことなので、この欄を通じていくらかでも知って戴けたらと思います。

 先ず最初に三十六年度の山行年間計画。

    歓迎山行→川苔山(奥多摩)513

    六月合宿→飛竜・雲取山 62425(日)

    夏山合宿→槍・穂高・蝶・大滝山(北アルプス)72430(日)

    ハイク 不定 923(日)

    秋山合宿→丹沢山塊 102022(日)

    秋山合宿→八ヶ岳 1125(日)

    スキー合宿→志賀高原 12.2431(日)

    冬山合宿→丹沢山塊 12021(日)

    春山合宿→八ヶ岳 22533

 次に各山行について

    歓迎山行

新入班員歓迎のための山行で全くのハイキング

    六月合宿

夏山準備山行の一つで、特に一年生にとっては合宿というものの最初のも    ので、期間は短いがいろいろと辛い合宿である。

    夏山合宿

活動最高のもので期間も一週間と長期合宿であり、一年生にとってはホームシック等にかかり一番辛い合宿である。しかしこれによって自分の体力が解り山行に自信がつき、この合宿がすむ頃には山岳班の活動内容が大分理解でき、これからの自分自身の登山というものを考える余裕ができる。

    秋山ハイク

これは今年新しく計画に加えたもので、目標は一年間に数多くの山行は         あるが、班員全員が一緒に山行することが全くないために、期間は短くても全員が参加することによって、楽しみと何かを得ようというものである。

    秋山合宿(a

夏山合宿以来、久々の合宿で、これには皆自信をもって臨むためか、期間は短いが結構楽しい合宿となる。

    秋山合宿(b

この合宿を機会に一年生に主体を置いて装備食糧などを完全にマスターしてもらう。また、十一月ともなれば山という山は殆ど雪におおわれる時期なので山の雪に触れるよい機会である。

    スキー合宿

春山合宿に備えてスキーを覚えようというもので、少ない休みを都会から長期に亘って離れ、雪上で過ごし大いに楽しもうというものである。

    冬山合宿

本格的冬山には縁の遠いもので、冬に山へ行くという程度の平凡な山行。

    春山合宿

夏に次いで重点をおいて、しかも長期に亘り雪上で生活する。われわれの年間山行中一番危険なもの。

 以上のような目的で、また以上のようにわれわれにとっては忙しい計画が毎年立てられ、一応これに従って実行されているのですが、前にも述べた通りわれわれだけのもので皆さんには関係がないというのはいかにも残念です。それを補うというためだけではありませんが、もう一つ大切なのは文化祭です。これは去年の思いの外の成績を収めたため、班員皆で考えた結果、今年も来年の文化祭には、という訳で全員協力して立派なものにし、富士高の名物にしようと張り切っているのです。これからも文化祭には大いに期待して下さい。また毎年秋深くなる頃には、西、豊多摩、富士の三校による懇談会を開き、いろいろと意見を交換し合い、親睦を深めようとしているのです。